小さきものたちの神 by アルンダティ・ロイ

インドの女流作家、アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』をご紹介します。
この作品については全然知らなかったのですが、西欧以外の作品を色々と調べていた時に見つけたので読むことに。アルンダティ・ロイの処女作ですが、なんと彼女はこの作品でブッカー賞を受賞!世界的ベストセラーともなった有名作品だったんですね。日本ではこれまた驚くほどに読まれていなくて、どうりで私も最近まで知らなかったわけだ。なぜ日本では、海外でここまで評価された作品が全然読まれることなく、埋もれてしまっているのでしょうか?いつも不思議でなりません。

まずは簡単にあらすじを。

インド南西部のケララ州を舞台に描かれる家族の栄華と没落、確執と愛、そして伝統的なカースト制と闘いながら成長していく双子の兄妹エスタとラヘル。早熟なイギリス人のいとこの死を機に、「歴史の愛の掟」はその冷酷な鎌をふるい始める―大地に根ざした壮大なユーモアとみずみずしい感覚でインド社会の小宇宙を描き出し、読者の五感に深い余韻を残す詩的な感動作。(Amazonより)

このような感じです。

インドのケララ州のアエメナム、という場所が舞台になっています。物語の主人公はラヘルとエスタという二卵性双生児。ラヘルが女の子、エスタが男の子。二人の母アムー、大叔母ベイビー・コチャマなどが登場します。双子は、現在31歳らしいです。また、彼らの母アムーは彼女が31歳の時に亡くなったことも分かります。そして、いとこのソフィー・モル。彼女は9歳の時に、不慮の事故で亡くなったようです。彼女はラヘルとエスタの伯父チャコとその妻マーガレットの娘でした。

その後、祖母のママチ、祖父のパパチ、青年ヴェルータなど、続々と登場人物たちが出てきます。

さて、主要人物たちはこんな感じなのですが、肝心のストーリーが非常に複雑です。というのも、現在と過去が交互に行ったり来たりする構成になっているからなのです。1969年、エスタとラヘルが7歳の時に起こった出来事と、1993年、31歳になったエスタとラヘルの現在とが、時系列ではなく、行きつ戻りつする構成なのですね。読者は、1969年の過去にある悲劇が起こったことまではわかるのですが、それがなんなのかはわからない。真相は最後の最後に明かされることになりますが、それまでは私たちは、いったい何が起きたのだろう、と考えたり予想したりしながら読み進めていくことになるんです。これはなかなかない読書体験で面白かったですね。

こういう独特な構成によって描かれる小説は、基本的にネタバレは絶対に見ないで読んでいくべきだと思います。その方が何倍も楽しめるでしょうから。ただ、ここでは完全にネタバレしますので、未読の方はご注意ください!

まず、登場人物の説明を改めてしておきましょう。
主人公が双子のラヘルとエスタ。母のアムー、父はバーバと呼ばれる人物。この二人は離婚しているので、双子は母アムーと生活しています。祖母ママチ(アムーの母)も一緒に住んでいます。そして祖父パパチ。パパチは既に亡くなっています。ママチはピクルス工場を経営していますが、当時のインド社会で女性として社会で活躍するということは非常に珍しく、また嫌がられることでもあったようですね。ママチの息子チャコ。アムーの4つ上の兄で、双子の伯父ですね。オックスフォード大学出身の秀才。チャコはイギリス人マーガレットと結婚し、ソフィー・モルという娘がいます。が、マーガレットとは離婚しています。そして、ママチのピクルス工場の使用人の息子であるヴェルータという青年がキーパーソンです。彼は不可触民であります。不可触民というのは、カースト制度にすら入っていない被差別民のことですね。

では、ストーリーに入っていきましょう。双子は現在は31歳であること。二人が7歳の時にある悲劇が起こったことはすでに述べました。母アムーは31歳の時に亡くなっていて、ソフィー・モルは9歳で亡くなっていることも既に述べましたが、これは物語序盤で明かされます。

ソフィー・モルのお葬式が行われたあと、エスタは一旦、父バーバの元に返されます。この時点ではなぜ双子が引き離され、エスタだけが父の元へ返されたのかはわかりません。そしてその23年後、双子は再会します。この時二人は31歳になっているんですね。ラヘルは大人になってからアメリカへ行っていたようで、ラリーというアメリカ人とも結婚していましたが離婚したことも分かります。

エスタが23年後に父の元を離れ、再びアエメナムへ戻ってきたことを知り、ラヘルも帰ってくる。そして二人は再会する、こんな流れです。

双子の人生と同時に家族の人生も語られていきます。
まずは大叔母のベイビー・コチャマ。彼女は今おばあさんですが、18歳の若かりし頃はマリガン神父という人物を愛し、彼のために改宗までしたのですが結局その恋は叶わずに終わっていました。それが彼女を変えてしまったようです。彼女はいつも堅苦しく意地悪で、人の過ちを許さず、また人の不幸すら喜ぶような嫌な人間性を持っていました。しかしこの人間性は、マリガン神父の愛を得ることができなかった絶望によって作られたものだったのかもしれません。

さて、第二章では、アムーの半生も語られます。彼女はママチ、パパチの娘ですが、女に教育は必要ない、若いうちに結婚できればそれで良い、という社会に根強く残る固定観念を嫌い、抑圧的な両親の元を離れます。逃げた先で出会った男性と半ば衝動的に結婚。夫となったバーバは茶農園の副支配人でしたが、実は重度のアル中。彼との間にエスタとラヘルが誕生しますが、彼のアル中がますますひどくなったことと、さらに最悪な裏切りがあって離婚。アル中で仕事もろくにしていなかったバーバは上司からクビにされかけますが、アムーを性の相手として提供してくれれば見逃すという話を持ちかけられ、なんと彼はそれを受け入れたのです・・・。さて、離婚して結局アエメナムに戻ってきたアムー。しかし、インド社会では離婚した女性への軽蔑は非常に凄まじいものがあったそうな。両親も、周りの人々もアムーを白い目で見ることになります。

さて、アムーの父パパチの話も出てきます。彼は妻ママチをよく殴っていたそうです。殴るなんて当たり前のことだったんですね。ママチもまた、殴られることが当たり前になって慣れてしまっていた。また、彼女がピクルス工場の経営を始めたりと、社会的な活動を始めると、パパチのママチへの攻撃はさらに激化。これは女性蔑視や女性嫌悪から現れる、歪んだ男性優位への願望だったのかもしれません。しかし、ある日イギリスから戻ってきたチャコが、パパチがママチをいつも通り殴るのを発見し、父の腕を捻じ上げて、二度とこんなことはしないでくれ、と一言。息子の肉体的な力強さを前に、完全に敗北した父親。彼は二度とママチを殴ることはしなかったけど、それと同時に二度と彼女に話しかけることもしなかった。
また、パパチを失意のどん底に落としたある事件が。彼は昆虫学者でもあったのですが、ある時、偶然見つけた蛾が、新種のものではないか?と思い調べていくのですが、結果は「新種でもなんでもない」という残念なものでした。しかし、その数年後、実はやはり新種だったということがわかります。しかし時すでに遅しで、パパチは「自分が見つけたんだ!」と言えるタイミングをすでに逃していました。結果、彼が嫌っていたある部下の名前がその蛾につけられてしまったのです。彼にとって、この事件はあまりにも不運で受け入れがたいことであったため、この事件以後、ますます人生に対する怒りや憎しみが鬱積し、ママチへの暴力へとつながっていったのかもしれません。そんなパパチは病気で亡くなりますが、ママチは気が触れるほどに号泣。自分を殴ってばかりいた夫を失い、それでも愛のために泣いたのでしょうか?

さて、その次に出てくるのがヴェルータです。不可触民の青年。ワリャ・パーパンという男の息子。ワリャ・パーパンはママチのピクルス工場で働いているんです。ヴェルータも使用人のようなものですね。ただ、働いてはいますけど、なかなかその処遇はきついですよ。不可触民であるので、彼らが触ったものは、ママチらは絶対に触れませんし、彼らの足跡さえ汚れたものと見なされるのです。なので、彼らは自分たちの足跡を残さないために、後ろ向きに歩き、足跡を拭きながら去って行くんだとか・・・。それを当たり前のこととして受け入れる不可触民と、当たり前のこととして冷酷に見届けるその他のカーストの者たち。恐ろしい差別の現実を垣間見ることができます。

さて、ヴェルータはアムーより3つくらい年下の青年らしいのですが、二人の間にはおそらく、何かが起きたことが分かります。また、最初の方で、ヴェルータはすでに亡くなっていることも明かされます。ヴェルータの死の後に、アムーは31歳の若さで亡くなっているんです。ただ、その真相についてはなかなか明かしてくれません。

第四章の「オレンジドリンク・レモンドリンクマン」という章、めちゃくちゃ気持ち悪いです。
ある日、エスタ、ラヘル、アムー、ベイビー・コチャマの4人で、映画を観に行くんですね。エスタが映画上映中に歌い出してしまったので、アムーは注意するんですがエスタは歌をやめられない。仕方がないのでエスタは映画館を出て、しばらく休憩することに。映画館の外にあるドリンク売り場で、ある男に話しかけられ普通に会話を始めたエスタ。この男、「オレンジドリンク・レモンドリンクマン」にエスタは性的暴力を受けてしまうんです・・・。一瞬の出来事ですがね・・・。しかもあまりにも自然に、あまりにも当然のことのように・・・。エスタは衝撃を受けたはずですが、というより、衝撃を受けたからこそアムーに言うことができなかった。助けを求められなかったんですね。この事件は、終生エスタのトラウマとなり、事あるごとにこの男を思い出し、苦しめられることになります。インドを舞台にした小説では、結構この手の話題が多いです。幼児に対する性暴力。この男には妻もいるらしいんですがね・・・。果たして小児性愛者だからなのか、あるいはだれかれ構わずなのか、弱い存在である子供を支配することで性欲のみならず支配欲も満たしたいからなのか・・・。とにかく、こんなことが日常茶飯事で起きるような社会、絶対許されざるべきであります。インド小説にこういうのがよく出てくるということは、それだけ多いということなのでしょう。本当に恐ろしいし、なんとしてでも、子供たちをこういう悪者から守らないといけない。しかもこの男は支配層でもなんでもない、ただの普通の売店でドリンクを売っている男。そんな男ですら油断がならないとは・・・。ありえないよ本当に。

いとこのソフィー・モル、彼女は9歳で急死し葬式の場面も序盤で描かれます。しかし、死因は最初は明かされない。いったいなぜ彼女は亡くなってしまったのか?彼女は双子の伯父であるチャコの娘ですが、チャコは前妻マーガレットと離婚しているんでしたね。マーガレットはその後イギリスに戻り、ジョーという人物と再婚したのですが、ジョーは事故死してしまうんです。チャコは、マーガレットとソフィーをアエメナムに呼んだんです。まあ、旅行で気分転換というか、悲しい気持ちを少しでも紛らわすため、という思いがあったのでしょう。ラヘルとエスタたちが、ソフィー・モルを空港まで迎えに行くシーンなどが描かれます。双子は、イギリス社会で育ったソフィー・モルを羨ましく、また恨めしくも思う気持ちがあったように思います。最初は、双子はソフィーにつっけんどんな態度をとったりして、アムーに叱られたりしていましたね。

第七章では、アムーの死や、ヴェルータのことなどが描かれていきます。二人は愛し合っていたのだろう、ということが徐々に判明していきます。そしてそれがどうやら恐ろしい結末を迎えたであろうことも。なぜなら、アムーと不可触民のヴェルータの愛は絶対に許されないことなのですから・・・。

さらに、第十三章ではマーガレットとチャコの馴れ初めも明かされます。二人はどうやって出会い、どうやって結婚し、そして離婚に至ったのか。イギリス人のマーガレットは、明るく人懐こいインド人チャコに惹かれて、またチャコもマーガレットを愛して結婚したのでしたが・・・。うーん、この結婚はなかなかうまくいかなかった。マーガレットがジョーという新しい愛する相手を見つけ、離婚を要求。悲しい最後ですね。で、さっきも書いたように、ジョーは事故死してしまい、マーガレットはソフィーを連れてアエメナムに旅行に来たんですよ。さ、物語の真相に迫っていきます。なんでソフィーは亡くなったのか・・・?

答えは・・・溺死です。ある日、エスタとラヘル、そしてソフィーは、ヴェルータが住んでいる館の近くにある川までボートで遊びに行っていたんです。実はこの直前に、アムーはヴェルータとの逢い引きがバレて家族から罵倒されていたので、双子に対して暴言を吐いていたんです。「生まれた時に孤児院に入れとけばよかった!」みたいなことを。それにショックを受けた双子は、どこかへ逃げてしまって、母を心配させようと思ったんです。ソフィーも一緒についてきたんですよ。この時、チャコとマーガレットは二人で用事に出かけていたんですね。で、川の流れが強かったのか、ボートが転覆、ラヘルとエスタはなんとか川から這い上がったのだけど、ソフィーは逃げられなかったのでしょう。その後、溺死してしまいました。恐ろしい真相が解き明かされてきましたね。ちなみに、エスタとラヘルも身分的にはヴェルータと遊んだりすべきではないのでしょうが、7歳の子供にはさすがにそんな差別意識はなかったのでしょう。ヴェルータは彼らにとってすてきな年上のお兄さん、という感じで慕っていたんですよね。

そして、さらに真相へ。
ある日、ママチの家に、ワリャ・パーパンがやってきます。ヴェルータの父ですね。そして恐ろしい事実を告げます。ママチの娘アムーと、ワリャ・パーパンの息子ヴェルータが、実は愛し合っているんだということを・・・。二人の禁じられた恋に気づいてしまったワリャ・パーパンは律儀にもママチに告げにいってしまうのです。彼は、怪物を生んでしまった!と言いながら泣きながら謝罪するわけです。あ、そうそう、実はママチは失明しているんですけど、この時もワリャ・パーパンの姿は見えないんですが、彼に飛びかかったりして、それはそれは恐ろしい形相でこの不可触民に怒りと憎しみをあらわにしていました。

ベイビー・コチャマは隣の部屋でこのやり取りを聞いていました。どういうことか、だいたい悟ったベイビー・コチャマのとった行動がまた恐ろしいのです。彼女は警察へ行き、ヴェルータをレイプ犯として告発したんです。アムーをレイプした、ということにしたんですね。またその後にソフィーも亡くなっていますし、双子もヴェルータの家に遊びに行っていたので、双子の誘拐とソフィーの殺害の罪もヴェルータに擦りつけることにしたのです。いったいなぜ?
このインド社会において、可触民と不可触民が愛し合うなど絶対にあってはならぬことなのです。それは当事者のみならず、家族、周りの者たちの名誉を著しく傷つけ、バレたら二度と同じような生活には戻れないかもしれないくらいのリスクを孕んだことなのです。ベイビーはアムーの将来のためを思ったわけではないのです。この家族の名誉を何が何でも守るためには、ヴェルータを犯罪者として追い込む以外ありえない。自分たちが被害者であるという構図を是が非でも取らなければならない、そう思ったのです。

警察は、その後ヴェルータの館へ行き、そこにいた双子の目の前で、ヴェルータを半殺しにします。殴ったり蹴ったりして。彼はズタズタにされた後に逮捕され、警察まで連行されました。双子は誘拐されたものとして保護されました。さあ、このままであればヴェルータはただレイプ犯として逮捕されるだけで終わりです。しかし、ベイビーには一点、誤算がありました。ヴェルータとの禁断の愛がバレたあと、アムーは家に閉じ込められていました。が、彼女は警察まで行き、事の真相を伝えたのです。ヴェルータにはレイプなどされていない。私たちは愛し合っていたのだと・・・。ベイビーは、まさかアムーがそのことを自ら警察に言いに行くとは想像もしていなかったのです。結果、ベイビーの嘘が警察にバレてしまいます。これは大変なことです。なぜなら、警察は無実の男を半殺しにしてしまったわけですから・・・。さて、ここで最後にして最大の悪がなされます。警察にどうしてくれるんですか、と詰められたベイビーは、エスタとラヘルに話をさせてくれ、と頼みます。そして、エスタとラヘルに、このままであれば、二人、そしてアムーもまた、逮捕され監獄に入り、恐ろしい日々を送ることになるんだと言って脅したのです。そして、二人を、また二人の母アムーを救うために、警察にあることを聞かれたら、はい、とだけ答えなさい、と。
ベイビーは、エスタのみを警官の元へ戻しました。エスタであれば、自分の命令を遂行すると確信したのでしょう。エスタは言われた通り、警官の質問に、はい、と答えました。その質問とは「ヴェルータは君たちを誘拐したのか?」というものだったのです。

しかし、結局ヴェルータは瀕死でしたから、逮捕されるも何も、すぐに亡くなってしまったのです。雇い主であるママチやベイビー、そして最後には小さな友人エスタの裏切りのために、ヴェルータは虫けらのように命を奪われたのでした。

最後の最後に、この恐ろしい悲劇の真相が解き明かされ、私たち読者は呆然とします。
そして、物語序盤で、エスタはある時から言葉を失ったと書かれていたことを思い出します。エスタとラヘルは、ヴェルータが好きでした。そんな彼を、なんだかよく分からない大人の悪に誘導されて、死へと追い込んでしまった。エスタにとって、大切な友人を裏切ったというその絶望は生涯、彼を苦しめることになった。そして結果、言葉を話せなくなるほどに、彼の人生を破壊してしまったのです。

23年後、再会したエスタとラヘル。ラヘルは一度結婚するも、やはり続けることのできなかった結婚生活。なぜなら、この悲しみ、絶望を理解し合えるのは、ほかでもないエスタしかいないのだから。驚くことに、最後に再会した二人は、双子ということを忘れてなのか、肉体的に愛し合うことになります。この展開には正直驚きましたが、それだけ二人の抱える溝と闇の大きさ、深さ、そしてそれを他人が埋めることの不可能さを物語っていたのかもしれません。

最後の章で、謎に包まれていたアムーとヴェルータの川での逢い引きの様子が描かれます。アムーは、川を渡った場所にあるヴェルータの家に何度か訪れ、そこで二人は禁断の愛に身を投じていたのです。悲しいことに、二人の愛に未来はないことを知っていながら。いつの日かそれが知られた時に、必ず悲劇的な終わりを迎えることを、重々知っていながら。あたかも虫がその短い一生を刹那的に生きるかのごとく、二人の愛の命は一瞬で終わることをわかっていながらも、その刹那的な愛に人生の全てを注ぎ、むさぼるかのようにその愛を吸い尽くそうとしたかのように。そして、案の定、二人の愛は突然終わりを迎え、一人は社会から殺され、もう一人は家族から見放され殺された。しかし、例えばセミが、地上に出てからすぐにその一生を終えることをわかっていながらも、刹那を生きるその姿に少なからず感動を覚えるかのごとく、アムーとヴェルータの、短い愛の命を懸命に生きるその姿に、私たちは感動を覚えずにはいられないのです。そして、二人の死は悲劇的であるのだけれども、それと同時に、少なくともこのインド社会においては、絶対に幸せになれなかったこの二人は、死によって分かたれたのではなく、むしろ死によって結合され、あの世で一緒になったのかもしれないという、希望すら抱かせる不思議な感覚を残すのです。

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さて、物語の概要を振り返ってみました。なんせ、時系列じゃないし、ちょっとずつ謎が明かされていくし、現在と過去が行ったり来たりだし・・・となかなか分かりにくい振り返りになってしまいました。ほとんど読んだ通りの順番で振り返ったので、きっとわかっていただけるかと思いますが、非常に分かりにくい構成ですよねぇ。ウィキペディアでは時系列順に綺麗にあらすじが説明されていたんですが、小説を読みきってからそれを読んで「なるほど!そういう順番だったのか!」と驚く部分もあったぐらい。笑
時系列がバラバラな小説はこれが初めてじゃないんですけどね。それでもやっぱり複雑ですわ。

でも、内容は完璧です。すごいです。双子が中心となっているけど、祖父母、両親、伯父、大叔母、また不可触民のそれぞれの人生や関係性が残酷なまでにリアルに描かれています。それが非常に興味深く面白い。エスタとラヘルの家系は上流家庭ですよね。祖父は昆虫学者で、祖母は経営者ですし、伯父はオックスフォード出てるし・・・。ただ、アムーは離婚しただけで軽蔑されてますから、女性蔑視は甚だしいのが分かります。内容の振り返りでは触れなかったんですが、政治についてもかなり描かれています。ヴェルータは共産主義の活動もしていて、ピライ同志っていう人物とは政治活動つながりがあったんですよね。ヴェルータは、アムーとの逢い引きがバレて、ママチから罵倒されるなど危機的状況に陥った時に、ピライ同志に助けを求めに行きました。しかし、彼は冷酷にも彼の懇願を無視し、助けてくれなかったんです。政治仲間としては受け入れていても、結局、不可触民なんですよ。本当に困った時には誰も手を差し伸べてくれないのです。

双子の落ち度でソフィーが死んだということになり、それに激怒したチャコは、それまでからかいながらも普通に接していた妹アムーに「ここから出て行け!!!」と怒鳴りこんでいきます。まあ、娘を溺死させられたと思い込んでいますからね・・・。家族の完全な崩壊です。

でもさ、この家族を崩壊させたのはいったい誰ですか?それは一人ではないんです。ママチを殴り続けたパパチの時からおかしかったし、その前からもずっとそういう流れがあったのでしょう。殴られ続けたママチもおかしかった。ベイビー・コチャマもおかしくて、チャコもおかしい。アムーにもそのおかしさは系譜されていた。しかし、唯一まとも、というか腐敗せずに善人として生きていたヴェルータと出会い、彼と愛しあえたことで、きっとアムーはこの呪われたような一家の鎖をもう少しで断つことができそうだったのに!ママチやベイビーにすべて破壊されたのです。

実は、ラヘルとエスタの現在はそんなに細かくは語られないので、二人が今後どうなっていくのかは謎な感じなんですね。31歳の二人が23年ぶりの再会を経て、心の傷を埋めるために愛し合う。でも、双子が愛し合って、それでどうなるっていうのでしょう?そんな関係、到底続けていくことなどできませんよね?このまま二人が破壊的な関係を続けていったとしたら・・・この一族はそれこそ本当に終わりを迎えることになってしまうのではないでしょうか。二人が最後どうなっていくのか、もう少し明確なエンディングだったら希望も持てたんだけどな・・・。

最終章はアムーとヴェルータの逢い引きがどんなものだったのか、について初めて明かされる章となっています。最後の最後に、アムーとヴェルータがつかのま愛し合い、つかのま幸せだったことがわかる。しかしそれ以前に、悲劇の結末を読んでいる私たち読者にとってはとても辛い最終章なのです・・・。

本書の特異な点は、やはりその書き方だと思います。最後まで真相が明かされないことや、過去と現在の入り組んだ複雑な描き方、最後まで読んでも、あれ、あそこって・・・どうだったっけ・・・?みたいに思えわせる場面もいくつか。私が思うに、アルンダティ・ロイは確実に、読者に二度読ませるためにこんな書き方をしたんじゃないかって。単なる推測ですが。というのも、私はどうしてももう一回読まないと、なんか気が済まないし、腑に落ちないんですよね。全て読み終わった時点で、もちろん色々わかったんですよ。でも、序盤の方でアムーとヴェルータの関係を匂わせる表現があったんですけど、最初は結末を知らずにそれを読んでいるものだから、そこまで重く受け止めてなかったんですよ。それを、全てがわかった今読み直した時に、絶対最初とは違う感じで受け止めると思うんですね。アムーとヴェルータの愛に限らず、そういうのがいくつもあるんです。二回目を絶対に読みたいなって思わせる類の小説ですね、これは。そのテクニックというんでしょうか、小説家としての技量にも感服しました。しかも小説としては処女作なのだから驚きますよね!

テーマも深いものです。カースト制、差別、インドの社会、政治、女性蔑視などなど。やはり一番印象に強いのは不可触民への差別でしたけど、女性蔑視もなかなかえぐいです。でも、こういうニュースしょっちゅう聞きますよね。例えば、カースト上位の女性が、不可触民と恋愛して名誉殺人が行われた話とかは、不可触民への差別と女性差別の両方の問題ですね。インドにもいいところはあると思いますが、こういう点できついな、と感じずにはいられません。カースト制や不可触民なんていう概念がある時点で無理です。世界は今、平等主義を目指しています。人種差別、民族差別、性差別に対する反発心、怒り、抗議が近年ますます高まっていますよね。もちろん、インドに限らず、差別はどの国にも存在しますし、どの国だってそれぞれ解決していかねばならない問題を抱えています。ただ、制度としては終わっていても確実にカースト意識は残っているし、不可触民という概念が存在する限り、インド社会は平等主義には絶対になれない。この世界の流れの中で、一体インドはどのような道を辿っていくのだろう。いつか、カースト制度が恐ろしい負の遺産だと言える時は来るのだろうか・・・。そんな思いを抱きながらの読後でした。

日本では残念なことに、本当に読まれていないこの作品を、ぜひ多くの日本人にも読んでほしいなと思います。インドは少し遠くに感じるかもしれないけど、その国で懸命に生きる人々の命や人生を大事にしていきたい。そしてあいも変わらず、全人類が自由と平等を獲得するために自分にできる些細なことを行なっていきながら、その日が来るまでは、諦めずに動き続けていきたいものです。

実は、最初は英語で読もうと途中まで頑張ったのですが、ちょっと私には難しく日本語の翻訳に切り替えました。ただ、これは確実に二回目を読みたい作品だったので、次は英語で読んでみようと思います。新しい発見があるかもしれません。

原題:The God of Small Things
出版:1997

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